大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 平成3年(う)822号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役二〇年に処する。

原審における未決勾留日数中六〇〇日を右の刑に算入する。

原審及び当審における訴訟費用は、全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、検察官大谷晴次作成の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、弁護人福本康孝、同瀬戸則夫及び同大政正一連名作成の答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

論旨は要するに、原判決は、昭和六三年七月一九日付け起訴状記載の恐喝未遂の公訴事実に対し、金員喝取の目的を否定して脅迫罪と認定したうえ、被告人を罰金一〇万円の刑に処する旨言い渡し、同年九月一九日付け起訴状記載の殺人・強姦致死の公訴事実に対しては、被告人が犯人であると断定できないとして、無罪の言渡しをしたが、いずれも証拠の取捨選択ないしその価値判断を誤った結果、事実を誤認しており、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決を破棄したうえ適正な裁判を求める、というのである。

そこで、所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果もあわせて検討したところ、以下のとおり、原判決には右各公訴事実に対する判断のいずれについても判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があり、破棄を免れないと考える。

第一  恐喝未遂の公訴事実について

本件公訴事実は、「被告人は、かねてから情交関係のある甲野冬子(当時三九歳)が他の男性とホテルで肉体関係を持ったことを聞知し、これに因縁をつけて同女らから金銭を喝取しようと企て、昭和六三年七月四日午前三時ころから午前五時ころまでの間、大阪府堺市〈住所略〉所在の大阪府営○○団地△棟×××号室の同女方において、同女並びにその場に同席していた同女の義弟丙田二郎(当時三五歳)、同丁村三郎(当時四二歳)及び同女の妹丁村夏子(当時三八歳)の四名に対し、「冬子がやってるところが写ってるビデオや写真を俺が一八〇万円出しておさえたんや。」などと虚構の事実を申し向けたうえ、「このビデオや写真が流れたらどないするんや。お前ら仲間やったら一八〇万円用意せい。二週間以内に準備せい。」、「お前ら金よう払わんのやったらビデオや写真を町内中にばらまいてもええんか。わしは普通の人間と違うんや。一八〇万円出すんか出さんのかどっちや。」などと語気鋭く申し向けて金銭を交付するように要求し、これに応じなければ右甲野冬子らの身体及び名誉に危害を加えかねない気勢を示して畏怖させたが、その場に駆けつけた同女の姉戊川秋子が警察に通報したため、その目的を遂げなかったものである。」というものであるが、これに対し、原判決は、被告人が同様の脅迫文言を申し向けた事実は認められるが、甲野冬子ら四名から金員を脅し取る意思があったとは認定することができない、と判示し、脅迫罪が成立するにすぎないとした。その理由として原判決は、(一)被告人は、犯行直前にも甲野冬子に対し、「浮気しているところのビデオを一八〇万円で買い取れ。」などと申し向けたり顔面を平手打ちしているが、それは同女から、ホテルで肉体関係を持った男性とまた会うことを許してほしい、と言われたことなどに激高したためと認められる、(二)被告人は冬子と本気で結婚しようと考えていたのであるから、そのような相手方やその親族から金員を喝取しようとすることはおよそ考えられない、(三)被告人は冬子が生活保護を受給しており一八〇万円もの大金を捻出できない状況にあることはわかっていた、(四)冬子が義弟を呼んだのは被告人から再び暴力を振るわれることを恐れたためであり、金員を喝取されるとの被害意識は同女になかった、(五)かねてから被告人は冬子が売春しているのではないかとの疑念を抱いていたため、同女方に在室していた丙田や丁村が売春仲間に相違ないと思い込み、事の行きがかり上(一)と同一の文言を丙田らにも述べただけと考えられる、(六)被告人は、冬子の姉であることを知っている戊川秋子が来たので、丙田らが冬子の親族であることが初めて分かったのであり、そこで脅迫行為を中止し、それまでの自分の言動を謝罪したうえ所持していた現金一〇万円を差し出したことが認められる、と判示している。

しかしながら、(一)甲野冬子の捜査官調書によれば、同女は行きずりの男性と肉体関係を持ったことはあるが、被告人にその男性と会う許しを求めたなどという事実は認められず、かえって、冬子が被告人の追及に対し男からの電話を否定したところ、被告人から「嘘ばかり言いやがって。」と殴打されたことが認められるのであり、これに反する被告人の供述は不自然にすぎ信用できない。(二)冬子の右調書によれば、被告人は同女の浮気に立腹し別れると述べていたのであり、また、丙田らに対しビデオの内容と称して同女の性交場面を説明するなど脅迫の態様がかなり執拗であることに照らしても、被告人が当時同女と本気で結婚しようと考えていたとは認めがたい。(三)冬子自身の資力が乏しいとしても、その親族に金を工面させることは可能であり、現に被告人が同女らに対し皆で相談して金を出すように要求した事実が証拠上認められる以上、同女から金員を喝取する意思がなかったということにはならない。(四)冬子が丙田を呼び寄せる際、「どつかれた。怖いからすぐ来て。」とだけ言ったことは認められるが、それは同女が当夜それまでに被告人から二度にわたって殴打されていたため、被告人が来れば更に暴力を振るわれることを最も恐れていたことを示すにすぎず、右言動をもって同女に金員喝取の被害意識がなかったということにはならない。(五)被告人が冬子らに対し金員を要求した事実は、丙田、丁村三郎及び丁村夏子の各捜査官調書で明らかであるが、更にその調書によれば、その際被告人が丙田らを冬子の親族と認識していたことは疑いを入れる余地がなく、また、被告人が二週間以内に一八〇万円という具体的な期限および金額を明示し、丁村三郎がこれを拒否すると、「払わんのやったら町内にばらまいてもええんか。」と申し向けるなどして、二時間にもわたって執拗に金員要求を繰り返し、その結果丙田らは畏怖困惑し、金の算段をするため義姉の戊川秋子まで呼び寄せたことが認められる。してみると、被告人に丙田らから金員を喝取しようとする意思があったことは明白であり、これを「事の行きがかり上」の言動にすぎないなどということは到底できない。(六)戊川秋子の当審証言及び司法警察員調書並びに甲野冬子の検察官調書によれば、秋子が冬子方に入ると、被告人はふてぶてしい態度でなおも金員を要求しており、その場の様子を知った秋子が警察に電話して警察官を呼ぶと、被告人は同女らに「お前ら、ここらに住まれんようにしてやる。」と怒鳴って出て行ったというのであり、被告人がそれまでの態度を変えて謝ったり一〇万円を出すようなことはなかった、と供述している。被告人は原審及び当審公判で謝罪や金の提供をしたと弁解しているが、関係者の供述と全く矛盾するし、秋子が警察に通報したことの説明がつかないのであって、右弁解は信用の限りでない。

以上によれば、被告人が原判示のとおり脅迫して金員を要求した際、甲野冬子らから金員を喝取する意思があったことは優に認定できるのであり、被告人の原審公判における不合理な弁解を採用し、信用性が十分認められる被害者側の供述を排斥して恐喝の犯意を否定した原判決は、証拠の取捨選択ないしその価値判断を誤り、その結果事実を誤認したというべきであり、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れない。論旨は理由がある。

第二  殺人・強姦致死の公訴事実について

一  公訴事実と原判決の要旨

本件公訴事実は、「被告人は、昭和五九年六月二九日午後九時三〇分ころ、大阪府堺市〈住所略〉所在のタナカビル付近路上に差しかかった際、同ビル地下へ赴く乙山春子(当時七歳)を認め、同女を知人の子供と思い、同ビル地下まで追いかけたところ、同所で人違いだと気付いたが、同女が可愛い子であったことからにわかに劣情を催し、強いて同女を姦淫しようと決意し、そのころ、同ビル地下一階男子共同便所の大便所内において、同女に言葉巧みに近寄り、同女着用のズボンやパンツをはぎ取って、その陰部をもてあそぶなどしたうえ、無理やり同女を抱きかかえて姦淫行為に及んだところ、同女が「痛い、痛い」などと言って騒いだので口を塞ぐなどの暴行を加えたが、同女がなおも騒ぐため、自己の犯行が露見するのを恐れ、殺意をもって同女の頸部を右手で締めつけ、よって、強姦の目的を遂げるとともに、そのころ、右扼頸により同女を窒息死させて殺害したものである。」というものである。

右公訴事実に対し、原判決は、(一)被告人の司法警察員に対する自供調書の大部分は任意性を欠き、証拠能力の認められる一部の調書についても、供述内容の重要な点に看過しがたい変遷があるのみならず、客観的状況と符合せず、また不自然な点が多く、信用性に欠ける、(二)被告人から本件犯行を打ち明けられ、犯行現場に被告人と一緒に花などを供えた旨の秋川D子の証言は、妄想や作話の疑いがあり、その内容も断片的で具体性に欠け、不自然不合理であるうえ、客観的状況と符合しないから、信用できない、(三)その他の証拠も疑問点があり信用性に乏しく、また公訴事実を積極的に認定させるものではないとし、結局証拠上被告人が犯人であると断定することはできず、本件公訴事実について犯罪の証明がないことに帰する、と判示し、無罪の言渡しをしている。

二  事案の概要

論旨に対する判断に先立ち、その前提となる事実関係で証拠上明らかに認定できるものを挙げると、次のとおりである。

1  被害者が発見されるまでの状況

被害者乙山春子は、昭和五二年一月二五日生まれの、本件当時大阪府堺市立浜寺小学校二年生の児童であり、夫と喧嘩して家出した母親に連れられ、弟とともに同市内の借家で暮らしていた。本件が発生した昭和五九年六月二九日当日、被害者の母親は、被害者ら二人の子供を連れて本件ビルの一階にあるパチンコ店でパチンコをし、被害者らには小遣い銭を渡して同ビル二階のゲームセンターなどで遊ばせていたが、午後九時一〇分ころ被害者が見当たらないのに気付き、同ビル内や周辺を必死に探すうち、午後一〇時七分ころ被害者が救急隊員に運ばれているのを見て、本件被害を知った。

被害者を最初に発見したのは、同ビル地下一階で飲食店(そば屋)を経営する小林房夫であるが、同人は午後九時五〇分ころ同ビル地下一階の東南隅にある男子共同便所に行った際、同所内の北側にある大便所のドアが開いており、人の足が見えたので中を覗くと、女児が下半身裸の状態で頭部を東側にして仰向けに倒れているのを発見した。

2  現場及び付近の状況

本件ビルは、国鉄(当時)阪和線堺市駅の駅前繁華街に位置し、一階はパチンコ店が占め、二階はゲームセンターなどがあり、地下一階は飲食街として当時一一店舗が営業しており、地下一階へは、北出入口及びビル内南東・南西各階段の三か所が通じており、午前七時半から翌日午前一時までの時間帯はシャッターが開いていて自由に通行できるようになっていた。

本件男子共同便所の入口鉄扉は当時蝶番が外れて開放された状態になっており、その内部北側の大便所は東西の幅が1.02メートル、南北の奥行きが1.1メートルで、南側に木製片開き戸が内側に押し開くように取り付けられ、和式水洗大便器が金隠しを西方にして設置されている。

被害者が発見された際、右便器金隠しの南西付近に子供用運動靴一足が置かれ、また南西隅の壁際に吊るされた芳香剤の上にピンク色の半ズボンとパンツが掛けられていたが、これらの靴や衣服は当日被害者が着用していたものである。

更に、本件現場付近から指紋七三個及び掌紋四〇個が採取されたが、そのうち大便所内の東側木製壁から採取された指紋一一個及び掌紋五個のうち指紋一個(床面からの高さ1.24メートル、入口ドア側から0.53メートルの地点から採取)及び掌紋一個(床面からの高さ1.28メートル、入口ドア側から0.35メートルの地点から採取)が、それぞれ被告人の左手拇指及び右手掌紋と一致した。

3  被害者の死体の状況など

被害者は、身長一二〇センチメートル、体重二三キログラム、血液型はB型の分泌型であり、死因は窒息であるが、加害者が右手指で被害者の前方から前頸部を扼圧した結果生じたと推認される。

被害者の膣口部粘膜等に粘膜下出血がみられ、処女膜の四時・六時・九時方向に破瓜が認められ、また、膣内容物の血液型はB型の分泌型であって、その中に多量の精子が存在した。更に、被害者の陰部付近から陰毛七本が採取され、判定し得ない一本を除き、いずれも血液型はA型であった。

4  被告人の逮捕に至る経緯など

大阪府警察本部は、被害者が頸部扼圧により殺害され、処女膜裂傷及び膣内に精液があったことから、本件を強姦殺人事件と断定し、被害者陰部から採取された陰毛の血液型がA型であることから、本件犯人の血液型はA型であるとして捜査を進めるうち、昭和五九年一一月一七日、前記2のとおり、現場大便所内から採取した指掌紋のうち各一個が被告人のそれと一致したという鑑識結果の回答を得て、被告人に対する身辺捜査を開始したところ、被告人の前妻の母子手帳から被告人の血液型がA型であることが判明し、更に、同月二四日、被告人が大阪府堺東署に出頭し、「事件の発生した昭和五九年六月二九日は、午前中新生会病院で治療を受け、午後も同病院の断酒会に出席し、一旦帰宅して、午後七時から午後八時半まで堺断酒会登美丘支部の例会に出席し、午後一〇時前に帰宅した。」旨アリバイを申し立てたが、裏付け捜査の結果、右当日の堺断酒会登美丘支部の例会に被告人が出席した事実はないことが判明した。昭和六〇年一月一一日、捜査本部は被告人の任意同行を求め、取調べ及びポリグラフ検査を実施し、午後九時五五分に調べを打ち切り、翌日任意出頭するように伝えたうえ午後一〇時二五分に被告人を自宅まで自動車で送った。捜査員は引き続き被告人方の張込みをしていたところ、翌一二日午前一時四〇分ころ、被告人が自室のある府営住宅五階と四階の間の踊り場から地上に飛び降り自殺を図り、その結果生命に別状はなかったものの右下腿部骨折等の負傷をし、その後も腰椎圧迫やアルコール依存症等により長期間の入院を繰り返したため、被告人に対する取調べは中断されていた。しかし、昭和六三年七月四日甲野冬子らに対する本件恐喝未遂の事実で通常逮捕され、同月一九日勾留中起訴され、その後八月二九日本件強姦致死・殺人の事実で逮捕、同月三一日勾留され、九月一九日起訴されるに至った。

三  被告人の捜査段階における自白

1  被告人の供述状況

原判決挙示の関係各証拠によって認められる被告人の供述経過及び供述内容は次のとおりである。

(一) 被告人は前記のとおり恐喝未遂罪で逮捕勾留され起訴された後、七月二一日から本件殺人・強姦致死事件の被疑者として堺東警察署で連日取調べを受け、八月二二日まで犯行を否認していたが、その間にも本件事件当日の夜現場の便所へ行った事実は認めている(八月一〇日付け及び同月一一日付け各司法警察員調書―以下、司法警察員調書を単に調書という。―には、「当夜午後九時半ころ、初めて同便所へ行って大便をした後、地上に出ると、甲野冬子の娘と思われた女の子が同ビルの地下へ降りて行ったので追いかけ、地下一階で顔を見て人違いと分かった。女の子は小学校二、三年生くらいで白っぽい上衣と半ズボン姿であり、点滴容器で作った飾り物をやろうとしたが、女の子は大便所に入ったらしく出てこなかったので帰った。殺してはいない。」旨の記載がある)。

(二) 被告人は八月二三日付け調書において本件犯行を自白し、「この事件は私がやった。妻子が家出してイライラしていたことから堺市駅周辺に出て、午後九時前後ころ、現場の便所で大便をして道路に出たとき、甲野冬子の娘と思われた女の子が本件ビルの地下へ走って行ったのでその後を追った。地下街で呼び止めて人違いと分かったが、可愛い子供だったので持っていた飾り物をやろうとして、大便所の中を覗くと女の子がいた。女の子は飾り物はいらないと言ったので硬貨を何枚かやると、自分から半ズボンのチャックを下ろしかけた。何とも言えない気分になり、ズボンとパンツを脱がせて陰部を弄んだ後、壁に向かって四つ這いにさせ後から性交しようとしたがうまくいかず、自分もズボンとパンツを足元まで下げて便器の金隠しに座り、女の子を膝の上に両足を広げて座らせ、尻を左手で強く引き寄せ陰茎を挿入し射精したが、その際女の子が声を出したように思い右手で顔か顎の辺りを突いたような記憶がある。私が便器から立ち上がろうとしたとき女の子が後ろに倒れてしまい動かなくなったので、驚いて女の子をそのままにして逃げた。」旨の供述をし、更に同月二五日付け調書では、「女の子は私が下半身裸になっていたのに驚いて『嫌や』と言ったが、その手を強く引いて膝の上に乗せ挿入した。女の子は『痛い、痛い』と言って首を振り両手で私の胸の辺りを叩くなどして暴れたので、人がやって来ると大変なので咄嵯に右掌でその口を塞いだが、それでも声を出すので右手の親指と人差指で喉をはさむようにして締めるうち射精した。女の子はぐったりして私の胸に顔を押しつけるようにして倒れかかってきたので、急に恐ろしくなり、女の子の体を抱えて下に置き、手首の脈を計ったが脈がなかったので、殺してしまったと思い、ズボンをはいて急いで便所を出た。」旨の供述をし、次いで同月二六日付けの調書では、右の飾り物をやろうとした状況を再び説明したうえ、飾り物の形状について被告人の描いた図面が添付されている。

(三) 被告人は本件事実で逮捕された八月二九日の弁解録取において、「当日午後九時半ころ、現場便所内で女の子を強姦したところ暴れ出したので首を締め、ぐったりしたのでその場に寝かせて逃げた。」旨被疑事実を認めている。翌三〇日付け調書では身上経歴が中心であり、犯行状況については二五日付けと同旨の概略が記載されている。更に被告人は、三一日の大阪地方検察庁堺支部における弁解録取で、「女の子が『嫌や』とか『痛い痛い』と叫ぶのに口を押さえるなどして強姦したこと、女の子がぐったりしたことは間違いなく、私が夢中で殺したものに間違いないが、首を締めた記憶はなく、時刻についても、まだ太陽が出ていたように思う。」旨述べ、同日の大阪地方裁判所堺支部における勾留質問に対し、「時刻は夕方五時ころで、無理矢理姦淫行為に及んだことは間違いないが、殺すつもりはなく、首を締めた覚えはない。」と陳述した。

(四) 九月三日福本弁護士が被告人に初めて接見し、同弁護士と瀬戸弁護士が被告人の弁護人として選任されたが、同日付け及び翌四日付けの各調書には、主に身上経歴が記載され、犯行については、八月三〇日付けまでの調書と同様に強姦し首を締めたことを認め、死刑になるのが恐かったので検察官や裁判官の前では犯行時刻について嘘を述べた旨の記載がある。九月五日付け及び七日付けの各調書では被告人の女性関係についての供述が記載され、同月六日付け調書では犯行後の行動について詳細な供述が記載されている。なお、同日午後には検察官の取調べが行われた。

(五) 九月八日付けの調書では被告人の女性との肉体関係についての供述が続き、今回の事件でも射精したとの記載があるが、読み聞けに対し、被告人は、「私が話したとおりの内容だが、事件を起こしていないような気がするので署名できない」旨を申し立てて署名指印を拒否した。翌九日付けの調書では、本件当日現場の便所で四、五歳の女の子とぶつかったことは認めながら、弁護人と相談しているうち自分は事件を起こしていないと考えるようになった、事件は起こしていない、との供述が記載され、同月一一日けの調書では、犯行状況について相当詳しい供述記載があるのに続いて、末尾において、「このようなことはしておらず、全て空想で話した。九月七日ころから事件を起こした犯人は私ではなく他に殺した犯人がいると思うようになった。」旨の供述が記載されている。その後の調書は否認や生活状況についての供述を内容としており、更に検察官に対する供述調書は九月一〇日付け、一一日付け、一三日付け及び一七日付け(一七日付けは二通)が作成されているが、一〇日付けでは「前回検事が来た六日から気持ちが変わり、別にいる犯人の代わりに死刑になることはないと思うようになった」旨を述べるなど、各調書とも犯行を否認する内容になっている。

2  被告人の供述調書の任意性

原審裁判所は、検察官が取調べ請求した一五通の司法警察員調書のうち、弁護人の同意のあった九月一五日付け及び一六日付けの二通を除く余の一三通について、いずれも「任意性及び供述過程」の立証趣旨で採用し取調べしたうえ、九月八日付けは署名押印を欠くとの理由で、八月三〇日付け以降九月一三日付けまでに作成された調書七通は、犯行に関する部分に任意性がないとの理由で、その全部または一部につき犯罪事実を証明する証拠としては取り調べない旨判断した。

検察官は事実誤認の論旨の中で、右のように任意性を否定した原審裁判所の判断は誤っていると主張し、一方弁護人は、原審裁判所がその全部または一部の任意性を認めた調書のうち、八月二三日付け、二五日付け、二六日付け、九月三日付け、四日付け及び九日付けの各調書についても任意性がないと主張している。そこで、原審裁判所が証拠能力を肯定した自白調書の信用性を検討するのに先立ち、これを含む供述調書全般の任意性について検討しておく。

原審裁判所が前記司法警察員調書七通の犯行に関する部分について任意性がないとした理由は、(一)被告人は七月二一日から連日取調べを受けたが否認し、八月二三日から二六日の間に犯行を一応認めたが、二九日に一旦殺意の点を否認し、三一日の検察官による弁解録取及び裁判官の勾留質問において、犯行時刻を変えたうえ殺意を否認するなど実質的に犯行を否認する態度を示しているから、八月三〇日に犯行を自白するのは不自然であるうえ、同日付け調書の犯行に関する供述は概括的記載にとどまっており、取調官が書き加えるなどした疑いがある、(二)九月三日付け及び四日付け各調書の犯行自供部分も概括的であり、三日以降弁護人が接見していることや被告人はそれまで実質的には犯行を否認していたと考えられることも併せると、被告人がこの時期に任意に供述するとは考えがたい、(三)九月六日付け以降の調書についても、そのころには被告人の否認の態度は一層固まってきているとみるのが相当であり、六日には検察官による取調べがあったが調書が作成されず、弁護人も接見しているから、同日警察官に対してだけ詳細に自供するとは考えがたい、(四)九月一一日付け調書については、内容が大部であって当日の取調べ時間内に録取し読み聞かせることは物理的にほとんど不可能であり、その末尾に「以上は空想で述べた」との記載が付加されていることからも、被告人の供述に基づかず取調官が記載した疑いがある、などというものである。

しかしながら、(一)被告人は八月二九日の逮捕後の弁解録取に対して、被害者を強姦したところ暴れ出したので首を締めたと供述していることは前記のとおりであり、二五日付けの自白調書と同旨であって、殺意を否認しているとはいえず、三〇日付け調書もその内容はこれらと同旨である。また三一日に検察官や裁判官に対して殺害の点は否認しながらも強姦の点は一貫して自白を維持しているのであり、「実質的に犯行を否認する態度を示している」とみるのは無理がある。(二)九月三日付け及び四日付け各調書の犯行に関する供述部分は、身上経歴部分に比べ概括的な記載になっているが、一旦自白をしたものの重刑を恐れるなどして詳細な自白をするのを躊躇し、供述がなお動揺することはままあり得るのであって、原判決の「任意に供述したのであれば詳細な供述内容となって然るべきである」との判示には直ちに左袒できない。(三)九月六日の留置人出入簿によれば、同日午前に司法警察員の、午後に検察官と司法警察員の各取調べが行われたことが明らかであるが、午前の取調べ後に弁護人の接見を受け、午後の検察官の取調べにおいて被告人がそれまでの自白を変え否認の態度に傾いたことは、被告人の九月一〇日付け検察官調書などから窺うことができるのであり、原判決の指摘は当たらない。(四)取調べ警察官である田村仁司の原審証言によれば、被告人の供述を聞き取ったうえ、翌日以降に再度確認してからまとめて調書化する方法もとっていたというのであるから、原判決の、当日の取調べ時間内における調書作成を困難とする指摘も当たらない。更に、九月一一日付け調書は、「六日の接見の後、検察官に対してそれまでの供述は空想によると話した」との供述に続いて、以前の自白と同様の内容の供述を繰り返し、最後に、「只今まで話したとおり六日までの調書ではこのように女の子を強姦し殺したのは私であり真実を話してきたように話しておりましたが、このようなことはしておらず全て空想で話したものです。」と記載されていて、結局は否認調書となっているのであり、その任意性を否定することは困難である。(五)なお、本件の取調べ状況を録取した録音テープについて、原判決は、一本のテープに再録されたもので原本の録音は消去されていることなどを理由に、任意性を立証する証拠としての価値は乏しいと判示している。しかしながら、右テープには確かに停止箇所もあり、また原本からつなぎ合わせ編集したことは原審角野信弘証言(一七回公判)によっても明らかであるうえ、録音原本の取扱いに関して慎重さに欠けた点があることは原判決指摘のとおりであるとしても、証拠上右録音内容にまで手を加えたような疑いを抱かせる事情は見当たらず、とりわけ八月二六日に録音したとされているテープでは、一問一答式で、自白する前の心理については「(問い)なんでや、早よう、何でもっと早よういわんかった」「(答え)言いたかったんですけど」「(問い)何でや」「(答え)やっぱし言うたら死刑やろなと思ったし」などと、強姦の状況については「(答え)ちょっとやったんですけど、いやっ、いやって言って、そんで、無理矢理腰引っ張って」「(問い)またがったんか、反対向いたんか」「(答え)正面向いて」などと、被告人との応答が生々しく録取されているのであり、本件の取調べ状況や被告人の供述の任意性を判断する資料としての価値は軽視できない。

以上のとおり、被告人は当初犯行を否認し続けたが、その後まず強姦の点を自白し、その二日後に殺害の点も認め、勾留段階では強姦の自白は維持しながら殺害の点を否認し、その後再び全事実を自白し、最終的に否認に転じた後も、なお従前の自白との間で動揺が続いていたと窺うことができる。そうすると、原判決のいう「八月三〇日以降は実質否認に転じていた」という事情は証拠上認めがたく、これを主な理由として八月三〇日以降に作成された自白調書に任意性がないとした判断は首肯できないというべきである。

なお、原審裁判所は、犯行の自白を内容とする八月二三日付け、二五日付け及び二六日付け各調書については、いずれもその任意性を認め証拠採用しており、この判断は右に検討したところからも是認できるが、被告人が恐喝未遂事件で起訴勾留中連日本件の取調べを受け、その三四日後にようやく自白に至ったことは前示のとおりである。しかし、その間取調官から違法不当な扱いを受けたとして被告人が原審公判(一三回、一四回及び二五回)で述べ、弁護人が主張するような事情、すなわち腰痛を無視しての取調べ、頭を押さえつけるなどの暴行、自白すれば一一年位で出所できるようにしてやるとの利益誘導などがあったとする点は、原審田村仁司証言(一五回ないし一七回)及び泉陽病院作成の昭和六三年七月一九日付け回答書などに照らしても肯認しがたく、他にその任意性に疑いを抱かせるに足る事情は証拠上認められない。

3  被告人の自白調書の信用性

原判決は、証拠能力を認めた自白調書について、(一)供述内容の重要な点に看過できない変遷があり、(二)客観的状況と符合せず、また不自然な点が多い、とし、供述が変遷したり虚偽の事実を含む供述になっているのは、経験しない事実を述べているのではないかとの疑いを生ずる旨判示して、信用性を否定している。この判断について以下検討を加えるが、原審裁判所は任意性を否定した供述調書についても前示のとおり立証趣旨を「供述過程」として取り調べているので、その限度でこれらも参照する。

(一) 供述の変遷について

まず原判決は、被害者の殺害について、八月二三日付け調書では、被告人が立ち上がった際女の子が倒れてしまったとして、不注意で死亡させたように供述し、二五日付け以後の調書では、首を絞めて殺害したと供述していることを指摘し、極めて強く印象付けられているはずの事柄について被告人の供述が大きく変遷しているとするが、当初は強姦の事実のみを自白し、その後に殺害の事実を自白したというに尽き、供述の変遷ないし矛盾とはいえない。

次に原判決は、陰茎を挿入した時期、被害者の反抗状況、首を絞めた時間、被告人の腰の動作、射精の時期などについて、これらは実行者が最も注意を集中する行動であるから、真実経験したのであればその供述内容が変遷するはずがないとする。しかしながら、被害者の反抗状況については、痛がり暴れたので首を絞めたという事実を二五日付け調書で初めて供述するに至ったのだから、二三日付け調書に暴れた旨の供述がなくとも右同様問題とするまでもなく、また、首を絞めた時間についての供述記載が八月二五日付け調書にはあり、九月三日付け及び六日付け調書にないことをもって、供述の変遷とみることはできない。その他の点については一応変遷があるといえるが、本件は公衆用の便所で少女を強姦するという異常な事件であり、緊張した精神状態の、性的にも著しく興奮している行為者が、自己の性行為の細部について正確に認識し記憶することが容易であるとは考えがたく、細部に変遷や曖昧な点があっても異とするに足りない。

また原判決は、被告人のズボン等の脱ぎ方について、ズボンのほかパンツも脱いだかどうか、ズボンを「足元まで下げた」「脱いで下半身裸になった」「左足だけ外して脱いだ」などの記載の違いを供述の変遷として指摘するが、九月三日付け調書の「便器に腰かけズボンを脱いで下半身裸になった」との記載を、原判示のように「ズボンは完全に脱いだかのような内容になっている」とみることは疑問であり、右各記載の内容に実質的な違いがあるとは考えられない。

更に原判決は、犯行直後の被告人の行動について、八月二三日付け調書では被害者を放置して逃げたと供述し、二五日付け調書では被害者を便所の奥の方に置いた、目は少し開いていたように思う、脈を調べたと供述し、九月三日付け調書では被害者を便器の奥の方に降ろした、目を開けないので頬を叩いたり脈を調べたと供述していることを指摘し、真実経験したのであれば忘れがたいと思われるのに大きく変遷している、とする。しかし、前示のとおり、首を締めて死なせたことを自白したのは八月二五日以降であり、二三日付けの調書に「そのまま放置して逃げた」旨の記載があるからといって、これを変遷ないし矛盾とはいえず、また、二五日以降の各調書間にその信用性に影響を与えるような変遷があるとは考えられない(例えば、目を少しだけ開いていたように思うとの供述と目を開けなかったとの供述は、被害者の目を観察した時点などによって差異が生じうる。)。

以上のように、原判決が重要な点に看過しがたい変遷があると指摘するところは、いずれも実質的に変遷とはいえず、または変遷の理由が合理的に説明できるのであり、被告人の自白調書の信用性に疑問を抱かせるものではない。

(二) 供述の内容について

(1) 甲野A子に似た女の子を見たとの点

原判決は、「本件当日現場ビル付近で甲野冬子の娘A子に似た被害者が自分の後方を走って同ビル地下に行くのが見えた」旨の供述部分について、被告人は昭和五二、三年ころ、当時二、三歳のA子を見かけただけで、その後本件まで六、七年も会っておらず、自分の後方を走って行った女の子が八歳に成長した同女に思えたというのは唐突で極めて不自然である、と判示している。

被告人は原審公判で、被告人が家出した昭和五二年か五三年ころの少し前に二、三回よちよち歩きの同女と会ったが、昭和六〇年六月ころ冬子と肉体関係を持つようになる前にはA子と話したこともない、と供述しており(二二、二三回公判)、原判決はこれによって認定判示していると考えられる。しかしながら、甲野A子の司法警察員調書によれば、同女の兄B男と被告人の次男四男が小学校の同級生だったことがあり、同女が小学三年生の一学期ころ(本件当時)、母の冬子と被告人がパチンコ店で親しく話している様子を見て、父を思い嫌な気持がしたとの記載がある。同女は右供述時一二歳(中学一年生)であるが、母親についての印象深い体験を涙ながらに述べており、その供述の信用性は高いと考えられるのであり、被告人と冬子の情交が本件事件後からであるとはいえ、同じ団地の隣合わせの棟で互いに顔見知りだった事情なども考慮すると、被告人が本件当時A子を知らなかったとは考えがたく、前記原判示は首肯できない。そして、被害者は本件当時小学校二年生であったが、A子は同じく三年生であり、髪型も被害者に似ていたことが認められる(A子の右調書)から、被告人が被害者をA子と見間違えたとしても不自然ではなく、この点の供述部分の信用性を否定できない。

(2) 被害者が本件大便所の中にいたとの点

原判決は、「女の子に飾り物をあげようと思い、同女が入った男子共同便所の中に入ると、同女は大便所の中に立っていた」旨の供述部分について、(一)被害者は母親が遊んでいるパチンコ店の中に便所があることを知っていたはずであるから、わざわざ地下の便所へ、しかも女子用共同便所でなく本件便所に行ったのは不自然である、しかも被害者の膀胱内は解剖時空虚であり、被告人が見かけた時点以後に排尿したとは認められないから、用便のため本件便所に入ったとは考えがたい、(二)被告人の供述するように被害者を便所内の壁に向かって四つ這い状態にさせたのであれば、被害者の指掌紋があって然るべきであるのに発見されておらず、また、被害者の頸部以外の負傷は被告人の供述する暴力態様、すなわち嫌がる被害者を膝の上に座らせ首を締めて姦淫したという行為から発生することはあり得ないから、結局被害者は他の場所で、被告人の供述するのとは異なる態様の暴行を受けた可能性があることも否定できない、として、本件大便所内に被害者がいたという供述部分は信用しがたいと判示している。

しかしながら、(一)被害者は、母親が毎日のように本件ビル内一階にあるパチンコ店で遊ぶ間、弟とまたは一人で過ごしており、ビル内外で遊び歩き回っていたことが認められる(乙山E子及び佐川佐代子の各検察官調書及び各司法警察員調書)から、被害者が当時本件便所に入ることは原判決がいうほど不自然といえない。(二)本件現場から被害者の指掌紋が発見されなかったことについては、被告人の指掌紋の場合と同様の問題であるから、これと併せて後に検討する。次に、鑑定人杉山静征作成の鑑定書中の検査所見によれば、被害者の死体には前頸部の扼圧傷以外に右上腕部及び左大腿部の各皮下出血(握傷または打撲傷)、左下腿部の皮下出血(打撲傷)が存在する事実が明らかであるが、被告人の自白によれば、被害者を膝に乗せるため腕を強く引いたとあり(八月二五日付け調書)、抵抗する被害者を強姦する際にその腕や脚に握傷や打撲傷としての皮下出血を生じさせることは十分考えられる。更に、本件大便所内には、被害者の左右の靴が遺留されていたほか、被害者のパンツと半ズボンも芳香剤の上から発見されていることは前示のとおりであって、発覚の危険を省みず他の犯行現場から本件大便所へ、被害者の身体ばかりか着衣や靴までも運び込む理由は考えがたいし、パンツ等が芳香剤の上に置かれていたことも説明しがたい。また、榎原靖雄の検察官調書によれば、同人は事件当日の午後九時半前後ころ、扉の閉まった大便所からうめき声が聞こえてきたと供述しており、これも本件現場で犯行が行われた事実を推認させる。以上によれば、被害者が他の場所で暴行を受けた可能性を示唆する原判決は到底是認できない。

(3) ドアの隙間から被害者が見えたとの点

原判決は、「大便所の扉が約一五センチ開いていたので覗いたら女の子が右奥に立っていた」旨の供述について、検証の結果、扉を一五センチメートルよりはるかに広く押し開け、体を大便所内に入れないと右奥を見ることはできないから、右供述部分には疑問がある、と判示している。

原判決が挙示する三通の調書をみると、八月二三日付けは「約一五センチ開いていたので、そのトイレの中に女の子が入っているのではないかと覗いてみたところ、先程の女の子がトイレ内に立っていました。」とあるが、同調書に添付された被告人自筆の説明図によれば、扉から便所の内に入ったところ女の子が奥に立っていた旨記載されており、九月六日付けでは「少し扉の開いていた大便所内に入って行きますと大便所内に女の子がいた」と記載されており、原判決の挙示する八月二五日付けには該当する記載は見当たらない。なお他の調書を見ると、八月二六日付けでは「扉が少しだけ開いていたので、そこから中を見ると女の子は右奥に立っていた」旨の記載があり、九月一一日付けでは「扉が約一五センチ位内側に開いているのが見えた、扉を内側に押して大便所内に一、二歩入ると右隅付近に女の子が立っていた」旨の記載も見受けられる。原判決が摘示する調書に限っても、「扉が少し開いていた、そこから中に入って行くと女の子がいた」という趣旨の供述であるとみるのが相当であるから、扉がどの程度開いていたかを子細に検討しても意味がなく、原判決は失当である。

(4) 被害者の着衣を置いた場所について

原判決は「脱がせた女の子の着衣を北側壁付近に置いた」旨の二三日付け調書の記載について、南西隅の芳香剤の上に置かれていた事実と明らかに異なっているから、実際に経験しないことを想像で述べた可能性がある、と判示している。

着衣を置いた場所に関する右供述と着衣が発見された場所とが矛盾していることは原判示のとおりである。ただし、着衣を置いた場所については、自白当初に簡略な内容の右供述がされた後は、明確な供述がなく、九月一一日付け調書になって、「脱がせた靴はしゃがんでいた私の右後方に置いたと思う、しかし半ズボンとパンツはどこに置いたか覚えていない」との供述が現れる程度である。強姦することに神経を集中していた被告人において、脱がせた被害者の着衣の置き場所まで注意を払わなかったとしても不自然ではなく、まして右供述が犯行から四年以上経過した時点でされていることも考えると、九月一一日付け調書のように記憶が薄れていたというのが自然であり、八月二三日付け調書の前示部分をもって犯行についての自白の信用性に疑問を挟むものとみるのは相当でない。

(5) 被告人が膝に被害者を乗せ強姦し射精したとの点

原判決は、「女の子を膝の上に乗せて陰茎を挿入し、暴れる同女の首を締めているとき射精した」旨の供述部分について、(一)被告人が便器の金隠しの上に座り、抵抗する被害者を両手で高く抱き上げて自分の膝の上に乗せること自体困難であるうえ、被告人は当日強力な鎮痛剤の投与を受ける必要がある程の腰部に痛覚があったことを考えると、一層困難であったと思われる。更に原審検証の際の実験結果によると、模擬人体を抱き上げてから膝への荷重などによる脚部・腰部等の痛みやしびれが大きく、被告人が射精に至るまでにはかなりの労力を要し、苦痛があったと思われるのに、右供述はその点の具体的状況に言及しておらず、現実性に乏しい、(二)本件当時地下一階の店舗は営業中で、本件便所を利用するため出入りする客などがかなりあったはずであり、このように犯行が発覚する危険性の高い場所では、その恐怖、不安等の精神的因子の作用が射精中枢の興奮の阻害作用となり、ついには不能を生ずることがあるから、被害者の首を締めるまでして犯行の発覚を強く恐れた被告人が右状態で射精するに至ることは、著しく困難または不可能である、旨判示している。

まず、原審検証調書によれば、原審裁判所が実施した検証は次のようなものである。

① 被害者に代わる模擬人体として二〇リットル入リポリタンクを用意し、腕に代わる竹棒や足に代わる子供用タイツなどを付着させ、被害者の体重が二三キログラムであるから、右ポリタンクに水を入れて模擬人体の重量を二三キログラムになるように準備した。

② 実験者が本件現場大便所の金隠しに座り、足を伸ばすと、床面から膝までの高さは35.5センチメートルであった。

③ 実験者が座って一〇秒(嫌がる被害者を抱き上げようとするのに要すると想定した時間)経過後、右模擬人体を、腕代わりの竹棒の下に両手を差し入れて、付着させてある子供用タイツの下端が実験者の膝の高さを超える程度まで持ち上げ(被害者が嫌がっている場合に足を突っ張って伸ばしたままにしていたとの想定に基づく)、大腿部の上に乗せた。

④ 引き続き、補助者が右模擬人体を、実験者の膝の上で毎秒一往復、約一〇センチメートルの幅で前後左右に揺らして加圧し(被害者が抵抗したことに基づく)、その結果右実験者は、一分一五秒経過時点で腰や尻の痛みを訴え、二分経過時点では足のしびれを訴えた。他に実験者についてもほぼ同様の結果であった。

しかしながら、右検証は誤った前提に立っていると認められる。

第一に、被害者を抱き上げて膝に乗せたと想定しているが、八月二三日付け、二五日付けをはじめとして被告人の供述調書にはそのような記載がない。右二五日付け調書では「女の子の手を強く引いて乗せた」とあるのに、原判決は同調書を引用しながら、「人を抱き上げる場合には脇の下に両手を差し入れるのが一般的であると思われるので、本件の場合も被告人が自分の膝の上に被害者を乗せるのに右の方法をとったものと想定し」たと述べ、証拠上認められない想定をしている。

第二に、同調書では「女の子は驚いて『嫌や』と言ったが、手を強く引き、両足を開かせて膝の上に無理矢理座らせた」旨の記載があるだけであり、膝に乗せる時点で被害者が強く暴れていたとは認められないが、その点をおいても、被害者を膝に乗せるためには、被害者の足の下端が膝の高さを超える程度まで高々と体を持ち上げることなど必要ではなく、右調書からも窺われるような方法、例えば被害者の足を床につけたままその体を引き寄せ膝に抱え乗せることも可能であり、原判決の想定は経験則にも反するというべきである。

第三に、右検証では、水を入れた全重量二三キログラムのポリタンク製模擬人体を使用し、実験者の大腿部に乗せて負荷実験をしているが、被害者は生身の女児で、しかも両足を開いて乗っている状態であるから、その体重による荷重が分散することを全く考慮していない。

したがって、これらの誤った前提に基づく検証の結果から、被告人の自白するような態様による強姦の実行が困難であるとする原判示は失当である。

次に被告人は、昭和五九年二月八日から新生会病院で慢性肝炎、アルコール症などに加えて腰痛症の治療を受け、本件当日の六月二九日は従来投与されていたヘルペックスのほかにインテバン軟膏の投与を受けており、同軟膏はヘルベックスよりも強い鎮痛作用を有することが天羽裕二証言(原審二四回公判)によって認められる。しかし同証言によれば、ヘルペックスは軽度の腰痛に使われる消炎鎮痛剤の含まれた湿布薬であるが、はがれることがあり、痛みの部所によっては貼りにくいので、塗り薬の消炎鎮痛剤であるインテバン軟膏も合わせて処方したと思われること、しかもインテバン軟膏を渡したのは、従来からの腰痛に対してでなく打撲に対してであると考えられ、レントゲン撮影や整形外科での治療を要する程ではなかったこと、が認められる。したがって、これらを総合すると、本件当日被告人がインテバン軟膏の投与を受けた事実から、直ちに被告人が腰痛や腰部打撲によって強い痛みを持っていたと疑うことは早計であり、これを前提としている原判示には左袒することができない。

更に原判決の指摘する、本件現場の状況から見て犯行発覚の可能性があることも射精を阻害する要因となる、という点については単なる一般論であり、現に犯人が被害者の体内で射精しているのであり、しかも既に検討したとおり、強姦行為が本件現場で敢行されたと認められるうえ、被告人の自白調書によると、被害者が暴れたのは途中からであり、被告人は大声を出されないよう被害者の口を手で塞ぐなどしているから、被告人に原判決がいうような強い恐怖心等があったと認められるか疑問というべきである。原判決は、性欲に関する個人差が大きいことや、性犯罪が公衆便所など異常な状況下で行われることも稀ではない事情を軽視していると考えられ、本件現場で強姦し射精がされたことを疑問視する前記説示は首肯できない。

(6) 二〇秒間位首を絞めて死亡させ、被害者の身体を便所内に横たえたとの点

原判決は、「約二〇秒間首を絞めていたところ女の子がぐったりしたので、便所の奥に置いた。女の子の足は金隠し付近にきていた。脈を計ったが全然なかった。」旨の供述部分について、(一)窒息によって人が死亡する場合には科学的に二分ないし五分間を要するとされているから、二〇秒位首を絞めて死亡させた旨の被告人の供述は科学的にあり得ないことを述べている、(二)被害者を大便所内に置いた場合、被害者の身長(一二〇センチメートル)は大便所の東西の長さ(一〇二センチメートル)よりも長いから、壁につかえて被害者の頭ないし足が折れ曲がった状態になるはずであり、これに反する被告人供述は自ら体験していないことを供述していることを示唆する、と判示している。

しかしながら、(一)急性窒息の場合における窒息の開始から呼吸運動の停止までの全経過は、原判決のように二分ないし五分間位であるとしても、本件のように、性行為をしながら同時に首を絞め続けるという異常な興奮状態の下では、時間の感覚は麻痺し、これを正確に再現して供述することは困難と考えられるのであり、二〇秒間位とする被告人の供述は漠とした感じで述べているにすぎないとみるのが相当である。また、呼吸停止後も数分以上心拍動が続くのが普通であるとしても、被告人の供述調書によれば、犯行直後でかなり心理的に動揺し、冷静に脈拍を計れる状態ではなかったと認められる以上、脈がないと被告人が即断したことが必ずしも正しかったとはいえない。(二)八月二五日付け調書でも引用されている二三日付け調書添付の、被告人自筆の見取図によれば、被害者の足を便器の金隠しの所に置いたように描かれている。しかし、第一発見者の小林房夫でさえ、事件当日に本件現場で実施された実況見分において、被害者の頭の位置として北東隅の壁付近の地点を、並んだ両足の位置として西側壁から二〇センチメートルの地点を指示しており、同人の司法巡査調書添付の見取図においても、被害者の頭や足が壁に接触していたようには描かれておらず、事件直後に臨場した消防署救急隊員の川西潔及び磯野通宏も、被害者は足を伸ばし便器をまたぐような恰好で倒れていたとする供述ないし図面による説明をしている(両名の各司法警察員調書)ことが認められる。これらを参照すると、被害者が死亡したと考え動揺している被告人においては尚更、被害者の体勢や足の位置について正確な記憶を欠いても何ら不自然ではないというべきである。

(7) 原判決が指摘するその他の点について

更に原判決は、(一)「犯行当日の午後八時三、四〇分ころ、知人の塚本富之が店長をしていた店に行き、同人から現金一、二万円を返済してもらった」という供述部分について、被告人が塚本の店に行ったのは本件当日ではなく五月二四日の昼ころと認められるから、右供述は事実に反する、(二)「犯行後帰宅して断酒会関係の書類を書いたが、事件のことを思うと手が震えて上手く書けなかった、翌日書類を持って社会福祉事務所へ行った」という供述部分も事実と異なる、と判示している。

これらについても検討すると、(一)被告人は原審公判で「昭和五九年中に塚本と会ったのは本件の一か月以上前の一回だけで、そのとき同人が返済のため被告人名義の口座を作った」旨供述し、証拠上同年五月二四日兵庫銀行に一〇〇〇円で被告人名義の口座が開設されている事実が明らかである。しかし塚本の検察官調書及び原審証言によれば、同年春から六月ころ被告人と一回か二回会い二万円返済した、店の混雑が一段落した夜の時間帯に一緒にビールを飲んだ、というのであり、被告人が昼間銀行口座を開設したのとは別の日に塚本の店を訪れたことを否定するのは困難である。(二)押収にかかるケースファイルに綴られた被告人作成の「移送費明細書」を見ると、被告人が本件当日書いたとする部分に判読しがたいような字の乱れがあることは明らかであり、また、被告人が社会福祉事務所へ行ったのは証拠上犯行の翌日でなく三日後であると認められるから、翌日に行ったとする被告人の前示供述部分が事実に反することは原判示のとおりであるが、事柄の性質上四年前の行動について思い違いに基づく供述をしたとみる余地が十分にあり、特に問題にするまでもないと考えられる。

(三) 自白調書の信用性について

以上のとおり、被告人の捜査段階における自白について、原判決が供述間に看過できない変遷があり、またその内容が客観的状況に符合せず、不自然な点も多いなどと批判するところは、いずれも首肯することができず、自白の信用性を左右するものとは考えられない。むしろ被告人の自白は、前記二の事案の概要で検討した1ないし3の事実関係に符合するばかりか、犯行の動機及び態様、犯行後の状況などについて、その内容が具体的で迫真性に富んでおり、またこれを裏付け補強する証拠も存在するのであり、その信用性は十分認めることができるというべきである。

すなわち、犯行に至る経緯について、顔見知りの甲野A子と思って後を追ったものの人違いだったが、可愛い子で人なつこい子という感じを受け、点滴容器で作った飾り物をやろうとして話すうち、いたずらしてやろうという気になったという供述は、具体的で自然であり納得できる。このうち甲野A子と顔見知りであったことや同女と被害者とを見間違えたとしても不自然でないことは前示のとおりであり、更に右飾り物については、被告人が供述しその形状を図に書いて説明した後である八月二九日になって被告人方から発見押収されており裏付けがある。この点被告人は原審二二回公判で、喫茶店「円」の経営者の娘河村佳代または交際していた雨田C子の子供にやろうとしたことがあると取調官に話したのが勝手に調書に書かれた旨弁解しているが、前示のとおり、被告人は犯行を自白する前である八月一一日付け調書ですでに右飾り物につき供述し、二六日付け調書では図まで書いて詳しく説明していることからみて、右の弁解は採用しがたい。

強姦に至る様子や犯行態様についても、被害者に硬貨をやったりその陰部を弄ぶなどした後、壁に向かって被害者の尻を上げさせるとか、便器の金隠しに座り膝に乗せるとか姦淫方法を順次試みたことを供述し、また、被害者の挙動についても、被告人がズボンを脱ぎ裸になったのを見て「嫌や」と言ったことや、挿入する際に被害者が痛がって首を左右に振り両手で被告人の胸の周りを叩いたことなどの供述もあり、犯行直後の行動についても、被害者がぐったりとした後、死なせたと思って被害者の目を見たり脈を確かめようとするなど狼狽した様子が供述されていて、いずれもその内容が実に具体的で迫真性が認められる。八月二三日付け調書では被告人自筆の図面入りの詳細な犯行説明書が添付されているが、これについて被告人は原審公判で、「女の子に話しかけるんやったら、おもちゃか銭をやったら喋ってくれるのと違うか。女の子を殺すんやったら、それは手で首を締めんと死なんやろう」などと想像で取調官に答えた、「名古屋のキャバレーでバックから性交したことがある。」と答えたのが本件強姦の調書になった、八月二三日付け調書の犯行説明書の絵は取調官の誰かが書いたもので説明文も角野刑事が口授するままに書いた、などと供述しているが、右説明書の内容及び原審田村証言(一五回、一六回及び一七回公判)などに照らし信用の限りでない。

更に、被告人の自白を裏付ける証拠として、本件犯行を打ち明けられた秋川D子の証言が存在するのであり、その他前記のとおり本件大便所の壁から被告人の指掌紋が検出されているうえ、陰毛などの物的証拠もありいずれも自白を補強している。これらについては、次項以下で詳しく検討する

四  秋川D子の証言

1  被告人と秋川の関係

本件事件の発生後、被告人は昭和五九年七月一〇日から同月二四日までアルコール症などにより大阪府和泉市内の新生会病院に入院し、退院後は大阪市阿倍野区内の小杉クリニックに通院したり、堺市内の浜寺病院の断酒会などに参加していた。同年九月ころ、被告人は右断酒会で当時病院に入院していた秋川と知り合い、同女が一〇月五日退院した後も同女の三女F子と三人でデパートへ遊びに行くなどして交際していたが、一二月ころ肉体関係を持つようになり、毎週土曜日に小杉クリニックで会った後被告人方などで情交し、月二回位は被告人方に泊まる関係が続いた。被告人が前記のように警察の事情聴取を受けた直後に府営住宅から飛び降りて重傷を負い、昭和六〇年一月一二日から堺市内の豊川病院に入院したため一時交際が途絶えたが、五月ころ同女が被告人を見舞ってから再び関係するようになり、被告人が六月八日退院してからも同女が被告人方へ行って掃除や洗濯をし、情交する関係が続いた。被告人が同年八月一三日に豊川病院に再入院してからは電話で話し合う程度で、その後被告人が九月一八日から新生会病院にアルコール症などで再入院して以降関係がなくなった(証人秋川D子の原審四回、六回及び七回公判証言、被告人の昭和六三年九月七日付け司法警察員調書及び同月一一日付け検察官調書、新生会病院、浜寺病院、小杉クリニック及び豊川総合病院作成の各診療録等写し)。

2  秋川証言の内容

(一) 証人秋川は原審四回、六回及び七回公判に出廷し、次のとおり証言した。

(1) 被告人から犯行を打ち明けられた点について

(要旨)昭和六〇年五月ころの土曜日、秋川が被告人を入院中の豊川病院に見舞った後、被告人に連れられてスーパー「ニチイ」の中の炉端焼店へ初めて行き、被告人はビールを二、三本飲んだ。被告人は、秋川の娘のF子が元気にしているかなどと話した後、「ジャンボ」パチンコ店のトイレの中で女の子を殺したと打ち明けた。秋川は被告人を信じていたので気にせず、その後被告人方へ行って掃除などをし、被告人は焼酎五合瓶を一本半位飲み、情交してから秋川は帰った。

(検察官の質問に対する証言中重要部分を速記録から引用すると、次のとおりである。)

いま裁判中の件について端的に聞きますけれども、その件について被告人から何か聞いたことありますか。

はい。

どういうことを聞きましたか。

………(泣き出す)

(中略)

泣いててもしようがないでしょう。

……「ジャンボ」パチンコ店のトイレの中……(泣く)

ゆっくりでいいからね。

……(泣く)

落ち着いて、深呼吸でもしてね。

(うなづく)……ごめん、もういや。………(声を上げて泣く)

気持ち、落ち着けてね。

………(泣く)

証人として証言してるんだから、自分が聞いたことなり経験したことをそのまま証言してくれますか。

……「ジャンボ」パチンコ屋のトイレの…

トイレで。

……。

トイレで、どうしたんですか。

女の子を………(泣く)

(中略)

どのように言ってましたか。

…ムラムラとした言うて。

なぜムラムラとしたかは、言ってなかったですか。言ってましたか。

……。

(中略)

どうですか、言ってましたか、なぜムラムラとしたかは。言ってました?

……言ってました。

どのように言ってましたか。

…かわいらしいて。

そのほかには言ってなかったですか。

大きな声出したからいうこと。

大きな声を出したから、どうしたの。

…首を締めて………(泣く)

その話聞いたときに、あなたはどんな事件か思い当たることはありましたか。

…半信半疑でした。

(中略)

これはすごい話の内容だと思うんだけれども、あなたに話した理由なんかについては言ってましたか。

はい。

言ってたということですけども、どんなふうに言ってましたか。

……私にも小さい子どもがおるから、全部話しした…

(中略)

今、何歳ですか。

今、小学校二年生です……(泣く)

女の子ですか、男の子ですか。

女の子です。……(泣きながら)冬川さん、本当のこと言うてぇや、本当に…(このあと何ごとか発言するが録取不能)

落ち着いてね。その話聞いてから、その女の子の話など聞いたりしたことありますか。

………(泣きながら)もう聞かんといてぇや…

(2) 被告人と本件便所へ行き供養した点について

(要旨)昭和六〇年六月八日被告人が退院し、その二週間後に被告人方へ行くと、被告人が子供の供養に行くから付いてきてくれと言い、二人でタクシーに乗り本件共同便所へ行った。途中スーパー「ニチイ」で百合や菊などの花とリンゴなどの果物とチョコレートなどの菓子を買った。被告人方から秋川が持参したコーヒー瓶に被告人が水を入れ、二人で花の茎を折って短くしてから手洗いの下に置き、その横に菓子や果物も供えた。被告人は同所で手を合わせて拝み、大便所で殺したと言ってから、扉横の仕切り板に左肩をもたれかけ、杖をつき、右足を前に出し腰を下げた姿勢で涙ぐんで拝み続け、秋川は被告人の腰を支えた。供養を終えて別れ際に被告人は「毎晩子供のことが出てくるんや」「もう出ぇへんやろかな」と言っていた。

(検察官の質問に対する証言中重要部分を速記録から引用すると次のとおりである。)

そんなふうに置いてから、どうしましたか。

手を合わせて。

誰が手を合わせたの。

………(泣きながら)子どもに済まん、言うて…

(中略)

大便所のほうで殺したということを聞いて、それで花を供えたと。それから被告人はどうしましたか。

…そこでまた手を合わせて涙ぐんでました。済まん、済まん、言うて。

(中略)

どんなふうに感じました?

…本当にやったんだなぁと、そこでまた。

別れるときに何か被告人が言ってなかったですか。

…毎晩子どものことが出てくるんや、いうて…

それで。

私は、早う供養せないかん、いうて。

で、供養したんやね。

(うなずく)

それで供養したことについて、何か言ってなかったですか。

もう出ぇへんやろかな、いうて…

(二) 右証言について、原判決は、(1)の犯行を打ち明けられた状況につき、①証言は円滑になされず、泣き伏して容易に答えず、途切れ途切れに、ごく短かい単語にも等しいような言葉を断片的に供述しており、その内容は具体性に欠け、必ずしも明確でなく、難渋する証言態度は不自然不可解である、衝撃的な内容を打ち明けられたというのに、その経緯や状況が極めて漠然としていて唐突である、②被告人は当時既に警察が本件について自分に嫌疑を抱いていると認識していたから、心を許し深刻な悩みや秘密を相談し合う間柄だったとも窺われない秋川に対し、そのような話を安易にするとは思われない、③その他証言内容に混乱がある、と指摘し、更に、(2)の現場へ供養に行った点についても、①秋川は被告人からの打明け話と供物の話は一体性のあるものと認識しており、供物については被告人と行動を共にしたから打明け話以上に強く印象付けられていたはずであるのに、取調べ警察官に対して、昭和六三年九月五日には打明け話の点を供述しながら、供物の点は二日後に初めて供述しており、不自然である、取調官の強い誘導のまま認めてしまったと考える余地がある、②被告人はその約二週間前に退院したばかりで杖を必要とする状態であったから、約五〇分間も立ち続けて拝んだとの証言には強い疑問があり、しかも、約一時間の間に誰も本件便所に入ってこなかったというのも非現実的で不自然である、と判示して証言内容自体の信用性を否定している。

しかしながら、原判決の右判断は到底支持することができない。

まず、(1)の犯行を打ち明けられた状況について検討する。

① 秋川が難渋しながら証言したことは原判決指摘のとおりである。しかし、前記引用した速記録から如実に見て取れるように、同証人は本件打明け話について証言を求められるや泣き出し、その後時間をかけて徐々に、時には泣きながら証言しており、「冬川さん、本当のこと言うてぇや、本当に…」「もう聞かんといてぇや」と訴えるなどしつつ供述している。本件を打ち明けられたとする昭和六〇年五月当時、秋川は被告人と情交関係を持ち、子供を交えて遊びに行ったり、被告人方の掃除や洗濯をするなど、いわば内縁同様の関係にあったことは前記認定のとおりであって、秋川は当時被告人との結婚を考えたこともあったが夫や子供のことを考えて被告人と別れたという証言もしている(原審六回公判)。そのような秋川が自分を信じて打ち明けてくれた話を、被告人にとって非常に不利な事実であるにもかかわらず、その面前で敢えて証言するにあたって、躊躇逡巡し悲痛な思いに駆られたことは右速記録によっても容易に窺うことができ、その結果右のような証言態度となったとしても何ら不自然ではなく、むしろ当然というべきである。「泣いたり言い渋った挙げ句難渋して断片的にしか証言していないことは不自然で不可解」などと指摘する原判決は、被告人と秋川の関係や証言時の同女の心情を正しく理解しないものであって、極めて不当といわなければならない。証言内容も、場所はジャンボパチンコ店の便所で、相手が女の子で、「かわいらしいて…ムラムラとした」とか、「大きな声出したから…首を締めて…」などと、行為の動機や態様について断片的ながらも明確に述べており、具体性に欠けているなどとはいえない。原判決は打明けの経緯が唐突であるともいうが、病院では何も言わず炉端焼店に連れて行かれてから、F子は元気にしているかという話から始まって本件打明け話になった、秋川にも小さい子供がおるから全部話したと言われた、との証言がされており、被告人が秋川の娘F子を可愛がっていたことを考慮すれば、右経緯は十分納得でき、唐突などと評することはできない。

② 被告人自身、これまで関係を持った数多くの女性のうち秋川に対しては、被告人方に来て掃除洗濯などもしてくれ、同じアルコール依存症患者で断酒についての相談もできるなど、特別の相手と見ていたことが窺われる(被告人の九月一一日付け検察官調書及び同月七日付け司法警察員調書)のであり、本件告白のあった当時は、前示のとおり、被告人と秋川は互いに信頼していたと認められるから、前記の経緯によって同女に本件を告白したことは十分理解できる。これに対し、被告人は原審で「知人の夏山から、金出したら何ぼでもやらせてくれる女やで、と紹介された」旨供述し(二三回公判)、夏山六男の司法警察員調書でも「秋川は、冬川は金をくれるからつきあっている、と言っていた」旨の記載があるが、交際を続けるうちに子供ぐるみの親密な関係になったと認められる。また、弁護人は、小杉クリニックの秋川のカルテに、昭和六一年一〇月一五日欄では「被告人に騙されて保証人となった」旨の、公判出廷後の平成元年一〇月一四日欄では「被告人が万が一出所した場合のことを考えて取り越し苦労している」旨の各記載があることを指摘するが、前者については、被告人との関係が夫に知れたことなどで当時秋川が悩み、気分が動揺していた様子が認められるものの、他方で同女が被告人の身を心配していたことも同カルテの多くの記載から窺われるところであり、後者については、被告人にとって極めて不利な証言をしたことで後悔に苛まれたか、被告人に恨まれ報復されることを不安に思ったとみることができ、これらの記載から証言当時秋川が被告人を嫌忌していたなどとみることはできず、他に同女が被告人を恨み悪意を抱くなどして罪に陥れるような事情は全く存在しない。

③ なお、原判決は、打ち明けられた店の所在地について検察官に誘導されて証言した、自分の入院の回数や時期などについて正確に答えられない、などと指摘しているが、店の所在については、秋川の方からニチイの炉端焼店と証言しているのであって、指摘自体が明白な誤りであり、入院関係では、秋川は入退院を繰り返しているため記憶が混乱したにすぎず(入院の理由については正確に証言している)、秋川証言の信用性の判断に影響するとはいえない。

次に、(2)の現場へ供養に行った状況について検討する。

まず、秋川の右の点に関する証言は非常に具体的で詳細であり、実に迫力がある。例えば、供養の品物の種類やその購入について明確に証言し、供えた方法についても「手洗いが低かったので、花が長いから折って短くして、手洗いの下に置いた」と具体的に証言しているところ、実況見分調書によって認められる現場の手洗いの状況と符合している。被告人が手を合わせ「済まん、済まん」と涙ぐんだこと、よその人が来ないようにじっと見張っていろと言われたこと、被告人は「毎晩子供のことが出てくるんや」と言っていたが、供養した後別れ際には「もう出ぇへんやろかな」と言ったなどと証言し、実際に体験した事実を内容とする、臨場感に満ちた証言ということができる。

① 秋川が警察官に供述した経過について、角野信弘の原審証言(二一回公判)によれば、昭和六三年九月五日、警察官である同人が被告人との交際について秋川から事情聴取したところ、約二〇分後に同女が泣き出し、被告人から事件を打ち明けられていることを話し出したので、捜査本部の指示を受けて右についての調書を作成した、同日は検察官も来て秋川から事情聴取した、九月七日に交際についての調書を作成した後、秋川の末娘に話題が及んだところ、秋川は「冬川さん堪忍」などと言ってまたも泣き出し、自分も犯人にされるという意味のことを言った後、角野に促されて、実は花を持って現場へ行ったと話し出した、その日は秋川の動揺がひどかったため簡略な調書を作成した、という事情を認めることができる。そのような秋川の心理状況及び取調べ状況を考えると、被告人に不利な事実を初日に全部供述しなかったことが原判決の指摘するほど不自然であるとは考えがたい。また、一周忌ころ現場に供物があった事実について、証人角野は知らなかったと証言し、他方証人田村は聞いて知っていたと証言しているところ、角野が右事実を知っていたのであれば初日にこれについても供述を求めることが可能であったことになるが、そのような供述経過にはなっておらず、しかも前記のとおり供養の前後の状況について生々しく具体的に証言されていることに徴しても、秋川の供述が捜査官の強い誘導によって作られたかのようにいう原判示には左袒できない。

② 被告人が五〇分位拝んだと秋川が証言していることは原判示のとおりであるが、その時間は正確に時計で確認したわけではなく、同証人の感覚を述べたにすぎないと考えられるし、被告人が当時腰などの負傷により杖を必要とする状態であったことは認められるが、秋川の証言(原審四回及び六回公判)によれば、被告人は仕切り板にもたれ肩ないし腰を秋川がずっと支えてやったというのであるから、そのような姿勢で佇立を続けることがそれ程困難であるとは認められない。また、午後二時ころの時間帯には現場ビル地下街の四店舗が営業し二店舗が仕込みをしている程度であるから、被告人と秋川がいる間に誰も入ってこなかったという供述が非現実的であるなどということもできない。

以上によれば、秋川証言についてその供述態度や内容自体から信用性に疑問があるとする原判決の説示は誤りというべきである。

(三) 更に、原判決は、秋川証言が他の証拠と一致しないと指摘し、(1)打ち明けられた後で小杉クリニックの辻本士郎医師にその話について相談したと証言しているが、カルテにはそれに該当する記載は全くないし、同医師の証言によってもその旨の相談を受けた事実は認められない、(2)供物を供えに行ったのは、被告人が退院した六月八日の二週間後の土曜日で秋川が小杉クリニックに通院した帰りであると証言しているが、カルテによれば六月二二日に秋川が通院したとは認められず、したがって被告人方にも行っていないことになる、(3)被告人方から空のネスカフェコーヒー大瓶を持って行ったと証言しているが、被告人はあまりコーヒーを飲まないから大瓶があった事実は疑わしい、(4)証人岩田幸利は、供物があったことについて秋川証言に符合する証言をしているが、置かれていた場所が異なり、かえって秋川証言に疑問を生ずるうえ、岩田証言は供物の種類などを秋川証言と符合するように鮮明に記憶しているのは不自然である、藤井次男の証言によれば、本件事件の一周忌ころに供物を見たことはなく、一周忌の日に他の女性店主が花を供えたというのであって、岩田証言はこれと矛盾する、と判示している。

以下右諸点について関係証拠を検討する。

(1) 辻本士郎医師に相談したとの点について

秋川証言(原審四回及び七回公判)によると、秋川が辻本医師に本件を相談したのは「角野刑事が来た時」と「被告人が逮捕された後」の二回と認められるが、一回目は昭和六〇年一月中旬であり(秋川証言、角野証言)、同月一九日のカルテに「被告人や警察のことでショックを受けている」旨の記載があるのと符合しているが、この時点では秋川は被告人からまだ本件を打ち明けられていないから、原判決の指摘と関係がない。二回目は被告人が逮捕された昭和六三年七月四日以降になるが、このときは警察(もしくは検察庁)に呼ばれていることで相談し、「知っていることはこの際全部言いなさい」と同医師から言われた旨証言している。そのとき医師に相談した内容については、具体的に言ったようにも述べるが(七回公判調書一八七丁)、被告人から聞いていた話の中身も現場へ供養に行ったことも言ってはいないと明言してもいる(同調書二〇五丁)のであって判然とはしないものの、右証言からすると、同医師は秋川から具体的内容については相談を受けなかった可能性が大きいと考えられるのであって、「打ち明けられたことで悩んでいると聞いた記憶はない」旨の同医師の原審証言と矛盾するとはいえない。カルテの同月二三日欄には被告人の件で悩む旨の記載がある程度にすぎないが、これは犯罪に関連するようなことはカルテに書かない旨の辻本証言によって理解でき、カルテに該当する記載がないからといって、辻本医師に相談したとする秋川証言の信用性を左右することにはならない。

(2) 六月二二日に小杉クリニックに通院したとの点について

小杉クリニックのカルテによれば、秋川は昭和六〇年六月中一日、八日、一五日及び二九日に通院し投薬を受けているが、二二日に通院した旨の記載はなく、また、一五日欄では数種の薬を七日分または一四日分投与されているが、七を一四に書き直した箇所のあることが明らかである。これについて辻本医師の原審証言によれば、当時同クリニックでは土曜日の午前一〇時から一二時まで女性の酒害者のミーティングを実施していたが、自由参加で記録に残らない場合もあること、来ても診察を受けるには二時間以上待たなければならない場合もあり、忙しければ診察を受けない可能性があることが認められる。そうすると、二二日に通院の記載がなくても通院の事実がなかったとはいえない。また、同証人は一五日欄で投薬七日分を一四日分と書き直してあるのは、秋川が翌週二二日には来られないと言った可能性が高いが、一四日分の投薬をしても翌週も来院する例があると証言しており、実際にカルテによると、同月二九日及び同年七月一三日に一四日分投薬しているのに翌週も来院している事例のあることが認められる。したがって、カルテの記載や投薬量から六月二二日に秋川が同クリニックに通院しなかったとみることはできない。

(3) 被告人方にコーヒー瓶があったとの点について

秋川は「被告人の家で、このネスカフェの瓶からコーヒーを出して飲んだことがある。供養に行くときは瓶の中身が空になっていた。」旨明確に証言している(原審六回公判)ところ、被告人逮捕後の昭和六三年八月二九日被告人方を捜索した際、ネスカフェコーヒーの大瓶と思われる物が写真に撮影されており(同日付け捜索差押調書、大野進の当審証言)、当時の被告人方にネスカフェコーヒーの大瓶があったとする秋川証言を補強している。原判決は、被告人の前妻冬川K子の証言(原審一八回公判)により、被告人はコーヒーを時々飲んでいたがあまり欲しがらず、同女との結婚中はコーヒー大瓶は置いていなかったこと、河村美千代の証言(同九回公判)により、被告人は同女経営の喫茶店でコーヒーは月に一回位しか飲まなかったことが認められるとして、被告人が本件供養までに頻繁にコーヒーを飲み続けて大瓶を空にしたとは考えられない、と判示しているが、被告人だけでなく秋川らの客が飲むことも考えられるのであり、右冬川K子及び河村美千代の証言をもってしても、前示秋川証言の信用性を左右するに至らない。

(4) 空山八郎及び藤井次男の各証言について

証人空山は、原審五回公判において、「本件事件当時、現場ビル地下街の喫茶店の常連で毎日のように行っていた。事件発生のニュースを当日聞いて驚いた。その後昭和六〇年四月から九月まで同ビル地下街の掃除のアルバイトを週に三日した。同年六月、本件便所の手洗い台の上の棚に花などが供え物のような形で飾られており、それを見てもうすぐ一周忌かな、身内の人か何かが供養に来たのだなと思った。ネスカフェの大瓶に大きな白百合一本位、小さな黄色の菊五、六本、他に小さな花が差してあり、その横にバナナ、みかんとりんご、チョコレートと袋入りのあられなどが置かれていた。一、二日後に見たときは洗面所の下の床に敷いた新聞紙の上に並べられており、誰かが移し変えたのだと思った。その一、二日後には瓶が倒れ花やみかんなどが散乱していたので、新聞紙に包んで捨てた。」旨証言している。

同証人の供述する瓶、花及び菓子など供物の内容は、秋川の証言する内容とほぼ一致している。これについて原判決は、右一周忌の三年余り後に取調べを受けた空山が供物の具体的内容を鮮明に記憶していたというのは不自然であり、右取調べの前に警察官に対してされていた秋川の供述に合わせて供述した疑いがある、と判示している。しかし、右空山証言によれば、同人は本件事件の前から現場地下街に馴染みがあり、身近で起こった事件なので驚いたと述べており、また藤井証言(原審二四回公判)によると、事件後警察が現場に張込み通行客に職務質問するなど捜査を継続していたことも認められるから、空山が事件について関心を持ち続け、供物を見て一周忌が近いと思い、事件と関連付けて記憶していたとしても不自然ではない。そして、空山は供物の内容につきネスカフェの大きい瓶などが印象深かったと繰り返し述べているほか、当初棚の上にあったのが床に移されその後散乱した様子及び自分の手で始末した状況を具体的に述べており、強く記憶に残ったそのままを証言していると考えられる。それらの状況についてはもとより秋川の知り得ないものであって、体験しない事実を誘導によって供述したかのようにいう原判示は相当でない。ただ、空山が供物を初めて見たときは棚の上にあったと証言している点は、洗面所の下に供えたとする秋川証言と異なっているが、他に二名いたアルバイト清掃員らが移動したなどの可能性も否定できず、右の点の食い違いが空山証言や秋川証言の信用性を左右するとはいえない。

一方、証人藤井は、喫茶店の女性店主が「今日一周忌じゃないかな」と言って牛乳瓶の類の一輪挿しに花を入れて手洗いの上の棚に供えた、それ以外にそのころ供物を見たことはない、と証言し、空山証言と矛盾する。しかし、前示のように、空山は現場便所の清掃を仕事にしており、供物の処分をしたことなど自らの体験に基づき具体的に証言しているのに比べると、他に供物がなかったとする藤井証言は信用性に乏しい。そして空山の見た供物と喫茶店の女性店主の供えた花は時期及び内容が別個であることは明らかであり、空山が処分した後に後者の花が供えられたと考えられ、空山が両者を混同している可能性は認めがたい。

以上によれば、空山は供養の点についての秋川証言を裏付けていると考えられる。

(5) 以上検討したとおり、秋川証言は他の証言と矛盾しているとは認められず、むしろ裏付けとなる証拠も存在するのであって、原判決の指摘はいずれも是認できない。

3  秋川の病状

(一) 浜寺病院作成の診療録写し(原審弁護人請求証拠番号四八)及び小杉クリニック作成の診療録写し(原審弁護人請求証拠番号三八及び四九)によれば、次の事実が認められる。秋川は昭和五七年七月二一日に肝炎で渡辺病院に入院したが、院内飲酒により退院させられ、同年九月一八日に浜寺病院に入院し(アルコール中毒症、肝炎)、昭和五八年六月三日退院した。同月一五日から小杉クリニックに通院したが(アルコール症、肝障害)、一一月初旬ころから症状が悪化し、知人と度々外出しては飲酒するようになり、一二月二二日浜寺病院に再入院した(カルテに「憂うつ気分、気分変動、意志欠如、抑うつ」等の所見がある。)。昭和五九年四月二一日退院し、同月二四日から小杉クリニックに通院したが(「断酒中なるも抑うつ気分、全身倦怠感が高度」等の所見がある。)、酒は絶ったものの鎮痛剤ケロリンを多量に服用するようになり、クモの巣のような物が見えたりカラオケの音が聞こえてくるなどと訴え、薬物中毒(鎮痛剤依存)と診断されて、同年五月二一日浜寺病院に三度目の入院をした(「幻覚、妄想、興奮、拒絶、せん妄、錯乱、もうろう」等の所見がある。)。一〇月五日退院し、翌六日から小杉クリニックに通院し(アルコール症、肝障害)、各所の断酒会にも参加したが、薬を大量服用したり抑うつ状態になり医師から入院を勧められた(カルテの昭和六〇年一月一九日欄に「被告人、警察、ショックを受ける」旨、三月五日欄に「被告人のことでショック、一昨日眠剤大量服用、自殺企図」の旨の、同月三〇日欄に「入院を勧める」旨の各記載があるが、飲酒については「アルコール臭がない」旨の記載が多い。)。昭和六〇年一〇月から被告人の件で夫と揉めるなどして再び飲酒するようになり、一一月二日浜寺病院に四回目の入院をした、昭和六一年三月二〇日退院し、同月二二日から小杉クリニックに通院し、アルコール症や肝障害などの治療を受けた。

(二) 原判決は、(1)被告人から本件犯行を打ち明けられたという昭和六〇年五月ころの秋川の病状について、昭和五九年五月ころには幻覚・妄想などが出現して入院し、退院後も昭和六〇年三月下旬には医師から入院を勧められるほど悪化し、同年一一月に四回目の入院をしているから、被告人から打ち明けられたという同年五月ころも病状は相当悪化していたとみられ、被告人から打ち明けられたというのは、秋川のアルコール依存症からくる幻覚、妄想、虚言、作話に基づくと疑う余地がある、(2)警察官から取調べを受けた昭和六三年九月ころの病状について、やや軽くなっていたがアルコール依存症による精神的混乱状態にあり、正常な思考、記憶の再現は困難であって、秋川が被告人から打ち明けられたものと思い込んでいた可能性、あるいは角野の追及や誘導のまま認める供述をしてしまったとの疑いも払拭できない、と判示している。

しかしながら、秋川の病状についての右認定は支持することができない。まず、原審で取調べ済みの医学文献を含む書証によれば、薬物中毒やアルコール中毒が進行すると妄想・虚言・作話等の精神症状を来し、中毒者の思考や話の内容は不正確で、障害の程度が著しいときは虚言とされ、また、睡眠剤や鎮痛剤の禁断症状として作話(記銘障害症状群)がみられる、とされている。しかし、秋川に幻覚や妄想が出現した原因は主として鎮痛剤への依存であって、昭和五九年五月に浜寺病院に三度目の入院をした当時のことであり、その後も鎮痛剤を服用したことは認められるが、幻覚など依存症状は軽減したことが前記カルテの記載及び辻本医師の原審証言によって認められる。したがって、昭和六〇年五月当時、秋川は抑うつ状態にあり入院を勧められたこともあったが、幻覚妄想が発現するほどの悪化した病状にあったとは認めがたい。

また、辻本医師は、アルコール痴呆が進行した患者の作話について、「記憶の欠落とか見当識の欠落を補うために作話をしていく」と説明し、アルコール依存症における虚言について、「社会や家庭との関係で問題が起きてくると自分自身を防衛したり合理化をする」ものと説明している(原審一二回公判)。本件で問題となっている秋川供述は、「殺人の告白」とか「現場へ行っての供養」という衝撃的ないし積極的事柄に関するものであり、思考力や記銘力の減退ないし障害と性質を異にし、記憶や見当識の欠落を補うための作話とは考えられないし、過去に実際に起きた出来事に対しての虚言による潤色や変形でもあり得ない。しかも同医師は、「アルコール依存症の末期には作話が出現する可能性もあるが、秋川は妄想、虚言や作話などの症状がないと思う」旨も証言している(なお弁護人は右証言について、同証人は担当患者の秋川に配慮していると指摘するが、同証人が秋川と被告人の主治医として微妙な立場にあると述べているのは、秋川から被告人の打明け話を相談された点に関してであって、病状については率直に所見を述べていると考えられる。)。更に、昭和六三年九月ころは抑うつ状態も軽快した状態であり、精神的混乱がなかったことも同証言によって認められる。

以上によれば、秋川はアルコール症に罹患し、更に一時期は鎮痛剤依存の状態にもあったが、被告人から本件犯行を打ち明けられたころには妄想等が発現するほどの病状ではなく、警察の取調べを受けたころには抑うつ症状も次第に軽減していたのであり、本件で問題とされている秋川証言が妄想・虚言などとみることは到底できない。したがって、この点に関する原判示も誤りというべきである。

五  物的証拠の存在

1  現場から発見された被告人の指掌紋について

前記二2のとおり、本件現場大便所内の東側壁から被告人の指掌紋各一個が発見されているが、これは、被告人の八月二三日付け供述調書及び添付された被告人自筆の説明図に記載されている「女の子を東側壁の方に四つ這いにさせ、女の子の尻の方から姦淫しようとした」旨の供述を裏付けるものと考えられる。

原判決は、(一)被告人の右供述によると、被害者を背後から姦淫しようとした際に時間と労力を要したことが窺われるのに、指紋と掌紋の左右一個づつしか発見されていないのは不自然である、同時に両手が壁に付いたと仮定しても、指掌紋の間隔が一八センチメートルしかないのはその際の手の広げ方として不自然である、更に、被害者の指掌紋が全く発見されないのも不自然である、(二)被告人は本件の三日前に下痢をして大便をもらし、パンツを捨てるため本件大便所に入ったと公判廷で供述しており、パンツを脱ぐ際にバランスを崩して周囲の壁に手を着くことはありうるし、また、被告人は地下の飲食街に度々来ていたから、現場便所に被告人の指掌紋が存在しても不自然とはいえない、と判示している。

そこで検討すると、原判決は被告人や被害者の手が壁に触れれば指掌紋が検出されるとの前提に立ち、その数や付着状況などを問題にするが、対象物に触れても指掌紋が付着しないことも、また付着しても不鮮明で対照不能とされることもあり得るのであり、原判決の疑問は当たらない。本件捜査においては、遺留指掌紋のうち比較的特徴点の多い八個(本件大便所東側壁から採取した分については二個だけ)が警察庁鑑識課に送付され、それらが鑑識の対象となった(昭和六三年八月二九日付け司法警察員捜査報告書)のであり、その結果東側壁の遺留指掌紋二個が被告人の指掌紋と一致し、その他から被害者の指掌紋が検出されなかったというにすぎない。次に、本件犯行と別の機会に現場便所に被告人の指掌紋が付着した可能性についてみると、被告人は原審一三回公判で「二九日には下痢をしていてパンツを汚し本件便所で捨てた、そのとき病院で貰った下剤の袋を忘れたかもしれない」旨、同一四回公判では新生会病院の診療録を示されたうえで「事件前か当日か分からないが、本件便所に初めて行った、下痢をしていたので新生会病院で薬を貰い、断酒会に出席した後酒を飲んでいて腹の調子がおかしくなり、本件大便所に行った」旨供述している。この点、右診療録、天羽裕二証人の原審供述(一〇回公判)及び同人の検察官調書(昭和六三年九月二日付け)によれば、被告人は本件三日前の昭和五九年六月二六日及び本件当日の二回にわたり新生会病院で下痢止めの投薬を受けている事実が認められ、本件のころ被告人が下痢をしていた、そして腹の調子が悪くなって本件便所に行ったという被告人の右公判供述を一応裏付けている。ところが、被告人の九月一〇日付け検察官調書では、被告人自身本件大便所を利用した際に指紋が付着したと思われる位置を(酔っていたので断定できないと付け加えながらも)七箇所図示して説明しているが、後方である東側壁については除外しており、体のバランスを崩して同所に左右の手を着いたことを窺わせる供述はしていないし、同様に否認後の九月一三日に実施された実況見分調書(同月一八日付け、同意部分)でも同旨の説明をしていて、被告人の供述によってもその指掌紋が東側壁に付着した理由の説明がつかない。被告人の指掌紋が付着していた位置は、前記二2のとおり、金隠しの反対側で、通常の用便方法をとる限り不自然な場所であることを考えると、本件の指掌紋は、被告人の前示供述のように姦淫しようとした際付着したものと窺えるのであり、結局その供述を裏付けるとともに、被告人と本件犯行を結びつける証拠としての価値があるということができる。

2  被害者の身体に遺留された陰毛及び膣内容物について

まず陰毛について検討すると、死亡した被害者の陰部付近から七本の陰毛が採取され(膣内から採取されたもの一本、陰部から採取されたもの四本、外陰部及び尻部に付着していたもの各一本)、判定し得ない一本を除き、いずれもその血液型はA型であり、一方被告人の血液型がA型の非分泌型であることは、前記二3のとおりである。

ところで、原審が取り調べた若槻龍児(大阪府警察本部刑事部科学捜査研究所技術吏員)作成の鑑定書(昭和六三年九月二〇日付け)には、被告人から提出された陰毛七本には顕著で特徴的な捻転屈曲が認められ、被害者から採取された遺留陰毛七本にも明らかに特徴的な捻転屈曲が認められ、外観所見が類似し、血液型が共にA型であることから、かなり高度の類似性を有するものと認められる、との鑑定結果が記載されている。原判決は、右若槻鑑定について、「捻転屈曲」は学会で認知された用語ではなく、陰毛についてそのような概念を用いて類似性を判断した同鑑定は、清水達造の証言及び同人作成の鑑定書などに照らし疑問がある旨判示している。

そこで、若槻龍児の原審証言及び同人作成の右鑑定書に加え、佐藤元(科学警察研究所技官)の当審証言及び同人作成の鑑定書を検討すると、若槻は外観検査及び血液型検査を実施しており、同人が本件遺留陰毛を鑑定した昭和五九、六〇年当時その所属する研究所では毛髪鑑定のための元素分析検査が実施不可能だったことを考慮すると、鑑定方法に誤りはなく、また「捻転屈曲」という用語も法科学的毛髪鑑定で一般に使用されており、捻転や屈曲の出現程度は陰毛の形態の異同比較に際し有効な形態所見となることも首肯できる。そして、若槻鑑定の記載に基づき更に鑑定した佐藤の右証言によれば、本件遺留陰毛七本のうち少なくとも三本は、被告人の陰毛七本と形態的に高い類似性を示すという。しかしながら、その高い類似性を指摘された右三本(いずれも抜去毛)について子細に検討すると、長さ・太さ(先・幹・根)・色調などの点において互いに一致しているとはいえず、他の遺留陰毛とは太さや毛先の形状などが異なっているものもあり、更に被告人の陰毛七本も太さや髄質の出現形態などが必ずしも一致してはおらず、個人内の変動があると認められるのであり、そうすると、両資料に高度の類似性を肯定した若槻及び佐藤鑑定は、被告人が陰毛を遺留した犯人であると認定できるほど高い証拠価値があるとまではいえない。ただしかし、右鑑定結果のうち、遺留陰毛と被告人の陰毛が同じA型の血液型を示すとの部分には証拠価値を認めて差支えない。

次に膣内容物について検討すると、被害者の遺体を司法解剖した医師杉山静征の証言(原審八回公判)及び同人作成の鑑定書によれば、被害者の血液型はB型の分泌型であるが、精液を含む被害者の膣内容物の血液型はB型の分泌型を示し、A型物質が検出されなかったから、精子の持主(本件強姦の犯人)は血液以外の体液にA型物質を持たないか、またはこれを分泌しない男性であることが認められる。そして昭和六三年七月二八日付け鑑定書によれば、被告人のだ液の血液型はA型の非分泌型であることが認められるから、右膣内容物中の精液の血液型と矛盾しないといえる。

右のとおり、遺留陰毛及び遺留精液の両方について、犯人の血液型と被告人の血液型とが矛盾しないという鑑定結果が得られた事実は、もとより被告人が犯人であると断定する資料にはならないが、他の証拠とあいまって被告人と犯人を結びつける資料であることは否定できない。

六  結論

以上要するに、原審が証拠能力を肯定した自白は、現場の状況や死因など客観的事実に符合するうえ、その内容に具体性及び迫真性が認められ、不自然な点も見当たらず、その信用性を肯認することができる。更に、右自白以外にも、被告人から本件犯行を打ち明けられ共に供養に行ったという衝撃的内容の秋川証言は、実際に体験した出来事をそのまま述べたものと認められ、被告人と犯人を結びつける重要な証拠としての価値を有するのであり、また、犯行現場から被告人の指掌紋が検出されたこと、犯人の遺留した膣内容物及び陰毛の血液型が被告人のそれと矛盾しないことなどの物的証拠があって、被告人の自白を裏付け補強している。これら証拠を総合判断すれば、本件が被告人の犯行であることに合理的な疑いをいれる余地はないというべきである。原判決は証拠の判断にあたって、誤った前提に立脚し、または被告人の公判廷における不自然な弁解にとらわれ、その結果被告人と本件犯行を結び付ける積極証拠の価値を正しく評価しなかったといわねばならない。結局原判決には所論のいうような事実誤認があり、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであって、破棄を免れない。論旨は理由がある。

よって、刑訴法三九七条一項、三八二条により、原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に次のとおり判決する。

第三  自判

(罪となるべき事実)

被告人は

第一  情交関係のある甲野冬子(当時三九歳)が他の男性と肉体関係を持ったことに因縁をつけて同女らから金銭を喝取しようと企て、昭和六三年七月四日午前三時ころから午前五時ころまでの間、大阪府堺市〈住所略〉所在の大阪府営○○団地△棟×××号室の同女方において、同女並びにその場に同席していた同女の義弟丙田二郎(当時三五歳)、同丁村三郎(当時四二歳)及び同女の妹丁村夏子(当時三八歳)の四名に対し、「冬子がやっているところが写ってるビデオや写真を俺が一八〇万円出しておさえたんや。」などと申し向けたうえ、「このビデオや写真が流れたらどないするんや。お前ら仲間やったら一八〇万円用意せい。二週間以内に準備せい。」、「お前ら金よう払わんのやったらビデオや写真を町内中にばらまいてもええんか。わしは普通の人間と違うんや、一八〇万円出すんか出さんのかどっちやねん。」などと語気鋭く申し向けて金銭を交付するように要求し、これに応じなければ右甲野冬子らの身体や名誉に害を加えかねない気勢を示して畏怖させたが、同日午前五時ころ同所に駆けつけた同女の姉戊川秋子が警察に通報したため、その目的を遂げなかった。

第二  昭和五九年六月二九日午後九時三〇分ころ、大阪府堺市〈住所略〉所在のタナカビル付近路上で、乙山春子(当時七歳)を認め、知人の子供と思い同ビル地下まで追いかけ、同所で人違いだと気付いたが、同女が可愛い子であったことからにわかに劣情を催し、強いて同女を姦淫しようと決意し、そのころ、同ビル地下一階男子共同便所の大便所内において、同女のズボンやパンツを脱がせ、その陰部を弄ぶなどしたうえ、同女を膝の上に乗せて姦淫行為に及び、その際同女が「痛い、痛い」などと声を出して暴れたため、右手で口を塞ぐなどの暴行を加えたが、同女がなおも騒ぐため、自己の犯行が露見するのをおそれ、殺意をもって同女の前頸部を右手で締めつけ、よって、強姦の目的を遂げるとともに、そのころ、右扼頸により同女を窒息死させて殺害した

ものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は各被害者につきいずれも刑法二五〇条、二四九条一項に、判示第二の所為のうち、殺人の点は同法一九九条に、強姦致死の点は同法一八一条、一七七条にそれぞれ該当するが、判示第一は一個の行為で四個の罪名に、判示第二は一個の行為で二個の罪名にそれぞれ触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条によりそれぞれ一罪として、判示第一につき犯情の最も重い甲野冬子に対する恐喝未遂罪の刑で、判示第二につき重い殺人罪の刑で処断することとし、判示第二の罪につき所定刑中有期懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第二の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で、被告人を懲役二〇年に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中六〇〇日を右の刑に算入し、原審及び当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

(量刑の理由)

本件第二の殺人、強姦致死の犯行は、当日偶然に出会った僅か七歳の小学二年生の少女に対し、自己の性欲を満足させるため、公衆便所内で強姦行為に及び、被害者が声を出すなどして抵抗したため、強姦の犯行が発覚するのをおそれ、喉を手で締め付けて殺害した事案であって、欲望のままの自己中心的な動機には全く酌量の余地がなく、態様も残酷かつ非情であり、その結果無垢な少女の身体が凌辱されたうえ、人生これからの貴重な生命が奪われたのである。下半身裸の無残な姿で便所に放置された、いたいけな被害者の有様は、まさに目を覆うばかりであり、両親の無念さは測り知れず、被告人に対する処罰感情は強烈である。一方被告人は、捜査段階で一旦自白したものの途中から否認に転じ、以後原審及び当審の公判廷を通じて弁解に終始しており、反省の態度はみじんも示されることなく、遺族に対する慰謝の手段も講じられていない。更に、本件が繁華街のビル内で敢行されたこともあって、地域社会はもとより社会全体に衝撃を与え、とりわけ幼い子供を持つ親に強い恐怖心を抱かせるなど深刻な影響を及ぼしたことも窺われるのであり、以上を総合すると、被告人の刑事責任は極めて重大というほかはない。また、第一の恐喝未遂の犯行は、深夜長時間にわたって被害者四名を脅し金銭を喝取しようとしたもので、犯行方法は執拗悪質であり、これについても被告人は不自然な弁解を弄し、反省が窺われない。ただ、第二の殺意が強姦の途中で衝動的に生じたものであり、殺害後被害者の姿を夢に見るなどしたため現場に行って供養し、一時は人間としての良心の呵責と悔悟の念を抱いたことが認められるほか、被告人には前科がなく、アルコール依存症で入退院を繰り返しながらも真面目に稼働していたことなどの事情があり、これらを量刑上有利に斟酌し、被告人に対して主文掲記の刑を科するのが相当と思料する。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官逢坂芳雄 裁判官米山正明 裁判官石井一正は転任のため署名押印することができない。裁判長裁判官逢坂芳雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例